昭和48年6月29日 夜の御理解
                                 中村良一


私、よく聞こえなかったけれども、幹三郎君が、あの、お話させてもらっておった。人の助かるお広前の雰囲気と言うか。例えば、これは、綺麗だとか、広いとか狭いということではなくて、例えば、あの、今度、康子の一年の式年の時に、あちらへ行って、あの、合楽の、椛目の、あの、継ぎ足し継ぎ足ししたような、あの、お広前でしたけれども、何とはなしに、人が助かる雰囲気を持っておった様に思うですね。
私は、合楽の場合であっても、本当に、あの、人が助かる雰囲気を持っておると。けども、それには、ただ、神ながらと言うだけではなくて、やはり、色んな工夫がなされておると。例えば、私が、ここで、お広前の天井を、まぁだ、ここは、どんなに高くしても良いのを、無理を言うて、こう、低くして貰ったり。例えばあの、そこの廊下を、暗くしてもらったり、向こうの廊下を長くしてもらったり。やはり、あの、お互いの持つ、人間はあの、感覚と言うものを持っておりますから、その感覚を、有難いほうへ、刺激する雰囲気といったようなものが、やっぱり、要るんじゃないかと思うですね。
あの、キリスト教会なんかに参りますと、あの、赤やら青の、こうガラスが、色んな角度から、こう、お広前に差し込むようなね、雰囲気が作ってあるのを、中に入って見らんけれども、そういう工夫がしてあるように、やはし、ご神前でも、一つの、何て言うかね、神秘的なね。やはり、そういう雰囲気というものが無からなければいけないです。特にこの、御結界と言うところは、そういう雰囲気を持たなければならないものですから。お参りをしてくる。先生が厳然として、ご奉仕になっておられる。もう、来ただけで、何とはなしに、しゃんとする気がするし。ところが、お参りしたら、先生が、ここに、うっついで、寝てござったというなら、もう、それだけで、今度は、参った者はがっかりしましょう。
ですから、これはね、神様の、そういうお繰り合わせを頂いて、働きを頂かなければならんと同時に、そういう雰囲気を持とう、作ろうという。私共は、こうして、羽織袴に身を固めるのも、やっぱ、それだと思うんですよ。神様の前に、そら、洋服でも良かりゃ、半ズボンでも構いはしません。いうなら、私共んごたりゃ、夜の夜中の御祈念は、もう、寝巻きのまま、やってくるんですから。ね。けれども、あの、そういう一つの、不思議な働きというものが、その雰囲気から、醸してこられるものが、無からなければいけない。
昨日、一昨日でしたかね。秋永先生のところの霊祭の時に、私、こちらへ出てきてませんもんでしたから、私も迂闊でしたけれど、御結界が、ここによけてあった。あちらから出てくるとに、もう、ここが、物置のように、小積み上げてあった。こういう様な、こちらにこうやって。誰が片付けたか知らんけれども。もう、こっち側から、こう来る時に、そこに御結界が、ちゃんとあるという事は良いけれども。そこに、こう机の上にあるものを、ここんとこに、こう小積みあげておるから、ちょうど、物置きか何かに入って行くような感じですね。入ってくる時に。みんな、そんな感じしませんでしたか。ですからね、あの、そういう工夫が要るです。
今日も私、ここから来たら、もう、そこは畳が、いっぱい、剥ぐってある。障子は向こうに、こうして、どうですか。片付けるのは、おーごつ、また二度も手が要ったけれども、どうですか。こう、夏のお広前としての、すっきりした感じがするでしょう。ね。だから、私は、あの、もう、わざわざしとったけれども、ほんなら、あの、そこの、用意してあった衝立やらを取らせて、まぁ、こんなに、私は、指図させてもらったけれども。そういう、だから、あの、心掛けも、私は、教会内に御用いただいとる者は、あの、要ると思うんです。人が、助からなければならないお広前。それには、勿論、人が助かるお広前は、もう助かる雰囲気を、絶対に持っておるです。ね。それは、どんなに小さくても、狭くても、そりゃ、六畳一間であってもです。人の助かる雰囲気を持ってるです。それが漂うてるです。ね。と同時にです、私共の、ほんなら、人間は、感覚を持っておるから、感覚的に言うてもです。有難くなれれる雰囲気と言うものを、工夫しなければいけないと思うですね。どうぞ。